【21卒】就活大学生の迷走日記

どうしようもなく自堕落な大学生の日記です。クリエイターとかいう凄く概念的な広い職業を志して、はや数年。何も前進しないのでブログを始めてみました。今、何をしたらいいんだ?そんな疑問の答えがいつか見つかればいいなと思います。

【内定】内定ひとつもろたわ工藤 ~芸術の哲学を添えて~

またまたおひさ。

 

最近コロナの影響で就活関連のイベントや選考が延期になったり、外出自粛要請が出たりで気分がげんなりしてきますね・・・

 

私はというと、今月頭くらいに無事内定を頂けました。この社会状況なのでどう転ぶか分からないという意味では手放しには喜んでいられない気もしますが。

 

就活が全て終わって落ち着いたらきちんと記録できたら良いなと思っています。

 

という訳で今回は、

 

 

芸術の哲学

 

 

ということでやっていきましょう。

 

 

そもそも芸術とは?

って話なんですけど、簡単に言いますと例えば「ゴッホが書いた絵」が素晴らしいと現代で評価されているのは何故ですか?ってことなんですよね。

 

もし仮に、「ゴッホの構図や色遣いや絵に表現されている全ての技術知識」を芸術の本質だと定義しましょう。その技術に民衆は魅了されているのだとしましょう。

 

では、名もない一般人(仮に私)がゴッホの絵と全く同じ絵を描いたら、それは評価されるのでしょうか?

 

当然、されないですよね?分かってます。

 

しかしです。しかし、これが評価されない理由はなぜか。何を以て私とゴッホの作品を区別することが出来るのかという話です。完璧に模倣されたゴッホの絵であるならばそこに見た目の違いはありません。しかし、ゴッホの絵だけは評価されるのです。これ如何。

 

知名度、人気度があるからです。

 

というか実際のところ、そこの区別がつく人はいません。「これがゴッホの絵です」と言われればそんな気がしてくるし、すごい技術や知識を感じるし、「これは素人の絵です」と言われればそう見えるし、粗が目立っているような気がしてくるのです。結局はバイアス・・・

 

じゃあ、芸術ってなんなんだ。

 

ゴッホ」という名前を冠すればどんな作品も素晴らしい絵になるのか、例えそれがゴッホの絵でなくても良い評価をえるのか。と私は考えたわけです。

 

なりますね。

大当たりした芸術家はその後も一定ライン以上の作品を創出すれば世間から一定の評価を得続ける、これは往々にしてあることでしょう。

 

「〇〇さんの作品だから買うor読むor見る」となればそこに芸術的な技術や知識の介在する必要性がなくなるように思えるのです。

 

ではそういうレベルの知名度の人間になるにはどうすればいいのか、といいますと、「広告」「告知」しかないですよね?部屋の片隅で埃をかぶっている作品はどんなに素晴らしくても評価されないし、どんなに酷くても世に出回っているのがその作品だけならその作品は一定の評価を得ることでしょう。

 

そうかんがえると、なんだか少し悲しいような虚しいような気がしてきたのです。

 

芸術というものを夢見ているのに、その芸術というものは実体が定かではない雲のようなもの。芸術という雲に乗りかかっているような気もするし、実は地面に落下しているだけのような気もする。手に入れたくても、手に入れたかどうかを確かめるすべがないのです。難しいですね。

 

でも、だからといって「人気になるため、有名になるため」の活動のみに力を入れてもそれは芸術作品にはなりえないとまだ自分は信じています。

精魂込めて作り上げた作品を創出して、同じような素晴らしい作品との激闘を繰り広げて世に出される。それこそが芸術だと信じていたいのです。その心で作品を作っていたいのです。

きれいごとですかね。いつかこの問題に答えを出したい。そう思います。

哲学に終わりはなさそうです・・・

 

それではまた。